あれは、高校三年生の春。進路も決まって、少しずつクラスの空気が“卒業モード”になっていた頃。僕は放課後、音楽室でこっそりピアノを弾くのが日課になっていた。
楽譜を持っていくふりをして、ただ一人でぼんやり過ごすあの空間が好きだった。静かで、夕日が差し込んで、誰にも邪魔されないあの時間が。
そんなある日。
「…意外。〇〇くん、ピアノなんて弾けるんだね」
不意に後ろから声がして、振り向くと、そこにいたのは隣のクラスのHさんだった。
明るくて友達も多くて、僕とはまるで住む世界が違うと思っていた彼女。なぜかその日から、彼女も毎日音楽室に来るようになった。最初はちょっとおしゃべりするくらいだったのに、いつの間にか、ピアノの連弾をするようになっていた。
誰にも言っていない。
もちろん、クラスの友達にも、先生にも。
「ここ、秘密の場所にしようね」って言った彼女の言葉に、僕はただうなずいた。
あの瞬間から、きっと僕はもう彼女のことを特別に想っていた。
でも、時間は残酷で、卒業式はすぐそこに迫っていた。彼女は県外の大学へ、僕は地元に残る進路。何となく分かっていた、これは“続かない関係”だってことも。
卒業式の日、最後の放課後。
二人で音楽室に行って、少しだけピアノを弾いた。言葉は交わさなかった。
代わりに、彼女がそっと僕の手を握って、「ありがとう」って笑った。
それが、僕たちの最後の“秘密”だった。
まとめ:
誰にも話せなかったけど、たぶん、あれはちゃんと恋だったと思う。
もしあの頃に戻れるなら、もう一度だけ、あの音楽室で連弾がしたい。そう思うのは、今でも変わらない。