だめだめ彼女と僕

第1話『朝、また彼女は寝坊した』

目覚ましは、6時45分に鳴るようにセットしてあったはずだった。

 だけど今、ベッドの中で彼女がもぞもぞと動いたのは――午前7時28分。
 会社に向かう支度を終え、ソファでコーヒーを飲んでいた僕は、ちらりと時計を見てから、ため息をつく代わりに笑ってしまった。

「……千紘。もう、7時半になるよ」

 布団の山が、びくんと動いた。しばらく沈黙してから、くしゃくしゃの声が返ってくる。

「やば……また……ごめ……あと5分……」
「無理だと思うよ。もう5分じゃ、出勤に間に合わない」

 返事はない。たぶん、また寝ようとしてる。

 僕はマグカップを置き、寝室のドアを開けて、ゆっくりと近づいた。
 顔を出した彼女は、片目だけ開けて、猫みたいにしょぼしょぼしていた。

「うぅ……りっくん……お腹痛い……かも……」

 うそだ。さっき、ちょっとお腹空いたって言ってたくせに。

 でも――うそつくときの千紘は、ほんとに可愛い。
 ばれないようにって一生懸命で、でも、すぐ顔に出る。

 僕は苦笑しながら、彼女のほっぺを指でぷにっとつついた。

「今月、もう三回目だよ? 遅刻」
「うぇぇぇ……責めてる? 今、責めてる……?」
「責めてないよ。むしろ、心配してる」

 千紘はうつぶせになって、枕を抱きしめた。寝癖で跳ねた髪が、朝の光でやけにキラキラしていた。

 こんなふうに、彼女はだめだめだ。
 でも、どうしても嫌いになれない。

 むしろ――どんどん好きになっていく。

「……今日、仕事お休みする」
「連絡は?」
「あとで、する……きっと、たぶん……いや、今する」

 うつ伏せのまま、スマホを手探りで探す彼女。その姿はちょっと情けないのに、全部が“かわいい”でできていた。

「朝ごはん、何か食べる?」
「……りっくんのコーヒー……あったかいの、ほしい……」

「了解。特製、朝のやさしさブレンドね」

 僕はキッチンに戻りながら、心のどこかで毎日思っている。

 この子と一緒にいられるなら、
 多少のだめだめなんて――全部、チャラでいいや。

 コーヒーを注いで戻ると、彼女はようやく布団から出て、毛布を巻きつけたミノムシみたいになって、ソファに座っていた。

「……ねえ、りっくん。わたし、だめな彼女?」
「うん、だめだよ」

 言い切ると、彼女は一瞬しゅんとした。

 だから僕は、その隣に腰を下ろして、優しく抱き寄せた。

「でも、世界で一番かわいい彼女でもあるよ」

 千紘は照れ隠しに、マグカップをぐいっと飲んだ。
 ちょっと熱すぎたみたいで、舌を出してふにゃっと笑った。

 その笑顔を見たとき、
 今日もまた、僕の1日は“しあわせ”から始まった気がした。

第2話『泣きながらオムライス』

今日は律の帰りが少し遅くなる。

 そんな朝に、ちひろは突然、思い立ったように宣言した。

「今日は、わたしが晩ごはん作るね!」

 洗濯物を干しながら振り返った律は、一瞬だけ“えっ”という顔をしたけど、すぐに笑って頷いた。

「うん、楽しみにしてる」

 ──実はちひろ、料理があまり得意じゃない。
 いや、正直に言うと、ほとんど壊滅的。

 でも今日は、“自分から”やりたいと思った。
 律に甘えてばかりの毎日が、ちょっとだけ悔しくて、でも愛おしくて。

 「何か、できるようになりたいな」って、珍しく検索履歴がレシピで埋まった午後だった。

 選んだのは、オムライス。
 ケチャップで「すき♡」って書けるやつ。

 けれど現実は、夢みたいにはいかなくて。

 玉ねぎは焦げかけ、ごはんはベチャッとなって、卵は……うまく巻けなかった。

「……え、これ、どうするの……」

 フライパンの中で崩れた卵をごはんにかぶせようとして、なぜか破れて、ひどい見た目になってしまった。

 なんとか形にして、律の帰宅時間ギリギリに皿に盛りつけて、ケチャップで文字を書こうとして……手が震えた。

「……すき、じゃなくて、すぴ……になってる……」

 ぐにゃぐにゃに曲がった文字と、焦げた卵と、へにゃっとしたごはん。

 見ていたら、涙が出てきた。

 こんなはずじゃなかったのに。
 律に、美味しいって言ってもらいたかっただけなのに。

 そのまま、ちひろはリビングの隅っこで、体育座りになった。

 ガチャ。

 玄関のドアが開く音がして、少ししてから、スーツのままの律が現れた。

「ただいま。……ん? どうしたの?」

 彼はすぐに気づいた。
 鼻をすすりながら、ちひろが指さしたのは、テーブルのオムライス。

「……頑張ったの。でも、無理だったの……。見て、ぐちゃぐちゃで、変で、全然可愛くなくて……」

 律は何も言わず、ふわっと笑って、キッチンに歩いていった。
 フォークを持って戻ってきて、そのオムライスを、一口食べた。

「……うん。めちゃくちゃおいしい」

「うそ……」

「ほんと。卵も、ケチャップも、ごはんも、ちゃんと千紘の味がする。なんか、あったかい」

 泣き顔のまま、ちひろはぐいっと抱きついた。

「ばか……ほんとは、全然おいしくないのに……」
「ううん。君が作ったってだけで、おいしいんだよ」

 その夜、2人は並んで崩れたオムライスを食べた。

 味は、ちょっと焦げてて、バランスも悪くて、卵も固かったけど──
 笑って泣いて食べた思い出は、ちゃんと胸に残った。

 きっとこれが、2人だけの“美味しい”ってことなのかもしれない。

第3話『記念日、忘れてたフリ』

その日、ちひろは朝からそわそわしていた。

 スマホのカレンダーを3回確認して、記念日だったことを確かめて──でも、律の口からはその話題が一度も出なかった。

(……もしかして、忘れてる?)

 付き合って1年と半年。
 記念日を忘れるなんて、律らしくない……そう思う半分と、そわそわが止まらない半分。

 夜、律はいつも通りの顔で帰ってきた。
「ただいま」
「おかえり……」

 ぎこちない声になってしまったのを、自分でも感じた。
 いつもより少しだけ冷たい態度に、律は首を傾げたけど、何も言わなかった。

「夕飯、作ってあるよ」
「ありがとう」

 食卓には、ちひろが頑張って作った唐揚げと、きんぴら。
 律の好きなメニューを並べたけど、彼は何も気づいてないように見えた。

(ほんとに、忘れてるんだ……)

 そう思った瞬間、ちひろはなんだか悔しくなって、ふて寝みたいに先にベッドに潜り込んだ。

「……おやすみ、律」

 部屋の電気が消えて、しばらくしてから。

 部屋の扉が、そっと開いた音がした。

「……ちぃちゃん、起きてる?」

 眠ったふりをしていると、律の足音が近づいてきて、ベッドの隣にしゃがむ気配がした。

「ほんとは、ちゃんと覚えてたよ。記念日」

 びくっと身体が動いたのがバレたのか、律はくすっと笑った。

「驚かせたくて、何も言わなかった。でも……失敗だったね」

 律の手が、ちひろの手をそっと握る。

「冷たくされるの、思ってたより、しんどかった」

 ちひろは思わず、毛布の中から顔を出した。

「……ほんとに? ほんとに覚えてたの?」

「うん。ほら」

 律はポケットから、小さな箱を出した。
 そこには、金色のリングが2つ。細くて、シンプルで、でも、ちゃんとペアになっている。

「ちぃちゃんの指に、ぴったり合うようにサイズ測ってた。……こっそり、ね」

 ちひろは涙が出そうになって、だけど指輪を受け取った手が震えて、
 うまく言葉が出なかった。

 律はそのまま、彼女の左手にリングを通した。

「……ずっと、一緒にいようね。だめでも、なんでも」

 ちひろは、布団から飛び出して、律に抱きついた。

「ばか……ばかばか……サプライズするなら、早く言ってよ……」

「ごめん。でも、泣いてる君も、かわいいよ」

 部屋の明かりは消えたまま。
 2人だけの記念日は、静かで、やさしくて、そしてきっと、ずっと忘れない夜になった。

第4話『泣き出した理由なんて、なくてもいい』

夜中、時計は1時を回っていた。

 寝返りを打つたびにシーツの音がする。
 静まり返った部屋の中で、ちひろの呼吸だけが不規則になっていた。

 律は、その気配で目を覚ました。

「……ちぃちゃん?」

 彼女の背中に腕を伸ばすと、小さな震えが指先に伝わってきた。
 そっと覗き込むと、ちひろの目から、ぽろぽろと涙がこぼれていた。

「え……泣いてるの?」

「……ごめん……わかんないの……理由、ないの……」

 目を腫らしたくないのか、顔を枕に押し付けて必死に泣く声を抑えている。

 律は、何も言わず、彼女の頭を優しく撫でた。

 言葉よりも先に、手の温度で伝える。

「大丈夫だよ。泣いていいよ。理由なんか、いらないよ」

 ちひろは声を殺しながら、律の胸に顔を埋めた。

「……なんか、全部うまくいってない気がして……
 何もしてないのに、疲れてて……
 わたし、ほんとダメで……」

「うん。ダメだね」

 ちひろは、びくっとして顔を上げた。

 だけど、律は優しく笑っていた。

「でも、それでいいと思う。今日、ちゃんと生きてたんでしょ?」

「……うん」

「それだけで、偉いよ。すごいよ。泣いてもいいんだよ」

 その言葉で、ちひろはもう一度、声を出して泣いた。

 静かな部屋に、泣き声と鼻をすする音だけが響いていたけど、律はずっとそばにいた。
 手を離さず、抱きしめたまま、背中をさすり続けた。

 しばらくして、ちひろは涙で濡れた顔のまま、ぽそっとつぶやいた。

「……りっくんがいてくれて、よかった……」

「うん、僕も。君がいてくれて、よかった」

 眠れない夜は、ときどき、心を試すようにやってくる。
 だけどそのたび、2人で乗り越える方法を少しずつ覚えていく。

 涙の理由は、いつか忘れてしまうかもしれない。

 でも、その夜に抱きしめられた温度だけは、
 ずっと胸の奥に残るんだろうなって――ちひろは思った。

第5話『初めての大ゲンカと、無言のハグ』

きっかけは、ほんの些細なことだった。

 夕飯の準備中、ちひろが卵を落とした。

「あっ……ごめん、りっくん……!」

 律は慌ててキッチンペーパーを取ったが、ちひろの焦りは止まらなかった。

「ほんと、私ってダメ……また迷惑かけてる……全部うまくできない……」

 そんな自分を責めるような言葉に、律はつい、声を荒げてしまった。

「だからって、そんなふうに言うなよ。僕だって、悲しくなる」

 その瞬間、ちひろの動きが止まった。

 律が声を荒げたのは、たぶん初めてだった。

 空気が、凍った。

「……ごめん」

 それだけ言って、ちひろは部屋の奥に消えた。

 その夜、夕飯は冷めたまま。
 2人とも、ほとんど口をきかなかった。

 テレビの音が、やけにうるさく感じた。

 寝る前、律はそっと寝室を覗いた。

 ちひろは布団の中で丸くなっていて、声をかけることも、できなかった。

 言葉が、うまく出てこなかった。

 でも。

 それでも。

 このまま眠るのは、嫌だった。

 律は布団の中にそっと入って、彼女の背中に腕を回した。

 ちひろは、少しだけびくっとして、それでも拒まなかった。

 言葉はなかった。

 ただ、抱きしめた。

 強く、静かに。

 やがて、ちひろがぽつりとつぶやいた。

「……嫌いになったと思った」

 律は首を横に振った。

「怒ったのは、君が嫌いだからじゃない。
 好きだから、悲しくなっただけ」

「……私も、ごめん。責めたくなかったの。自分のこと、嫌いなだけで……」

「それも、知ってるよ。だから一緒にいるんだ」

 しばらくして、ちひろは律の胸に顔をうずめた。

 そのまま、2人は眠った。

 言葉よりも、ハグの温度が、確かだった。

 けんかしても、嫌いにはならない。
 むしろ、愛しさが深まることもあるんだって、2人は少しだけ知った夜だった。

第6話『サンタは、同じプレゼントを持ってきた』

12月24日、クリスマスイブ。

 ちひろは、朝からそわそわしていた。
 プレゼントを買った袋を、こっそり押し入れにしまって、バレないように隠した。
 
(律、喜んでくれるかな……)

 選んだのは、シンプルなレザーの名刺入れ。
 彼が毎日仕事で使ってるものが、だいぶボロボロだったのを見てたから。

 そして夜。
 部屋には、ふたりきりの小さなクリスマスツリーと、チキンと、ケーキと、笑い声。

「ねえねえ、プレゼント、交換しよっか」

 ちひろがわくわくしながら袋を取り出すと、律も笑って頷いて、自分のバッグから小さな箱を出した。

「せーの、で開けよ?」

「うん!」

「せーの!」

 開けた瞬間、ふたりとも、ぽかんとした。

 ちひろの袋の中には、レザーの名刺入れ。
 律の箱の中にも、レザーの名刺入れ。

「……え?」

「……あれ?」

 目が合った。

「えっ、まさか」

「同じ……?」

 デザインも色も、ほとんど一緒。
 おそらく、同じお店で、同じ棚から、同じものを選んでいた。

「ま、まじで……!? こんなことある……!? てか、かぶる……!?」

 ちひろが恥ずかしそうに頬を赤くすると、律は吹き出して笑った。

「すごいね。思考回路、完全一致だ」

 ちひろは、くしゃっと笑って、でも目が潤んでいた。

「なんかさ、うれしいね。
 律のこと、ちゃんと見てたの、伝わった気がする……」

「僕も。ちぃちゃんが、僕のこと気にしてくれてたんだなって、嬉しかったよ」

 ふたりは、おそろいの名刺入れをテーブルに並べて、
 それを見ながら、しばらく何も話さなかった。

 ただ、笑っていた。

 サンタクロースがいるかどうかなんて、どうでもよくて。

 大切な人と、大切な想いが“ちゃんと通じてた”ってことだけで、
 この夜は、奇跡だった。

「ねぇ、りっくん」

「ん?」

「来年も、いっしょに笑ってようね」

「うん。たぶん、再来年も、その次も」

 クリスマスツリーのライトが、ふたりの影を、そっと寄り添わせた。

第7話『洗濯物に、好きって入ってた』

ある日の午後。

 律が仕事から帰ると、部屋の中はふわっと柔軟剤の匂いがしていた。

「ちぃちゃん、洗濯してくれたんだ」

 洗濯かごの中には、乾いた服がふんわりと積まれていて、たたまれたタオルの上にシャツと靴下がちょこんと乗っていた。

 律はその中から自分のシャツを手に取ると、何かがぽとりと落ちた。

「……ん?」

第8話『りっくんの秘密、スマホの中にあった』

その日、ちひろは少しだけ手持ち無沙汰だった。

 律がシャワーを浴びている間、充電器を探していたら、リビングのソファに置かれた彼のスマホが目に入った。

「……あ、りっくんのスマホ。ごめん、ちょっとだけ借りるね」

 パスコードは知っている。律が教えてくれたし、特に隠している様子もなかった。

 充電の確認だけ──そう思って開いたホーム画面。

 そこに、見慣れないアプリのアイコンがひとつあった。

「“To chii-chan”……?」

 メモアプリのようだったけど、名前が、まるで自分に宛てたものみたいで。

 好奇心と、ちょっとの不安と、ほんの少しの期待。

 ぽち、と開いてみる。

 そこには、日付と一緒に、短い言葉がたくさん並んでいた。

『2024.03.17 ちぃちゃん、今日は洗濯干してくれてありがとう。ちょっと寒かったけど、ベランダに出てる背中、かわいかった。』

『2024.04.01 エイプリルフールだけど、嘘じゃない。“大好き”って言ったの、本気だからね。』

『2024.06.28 君の寝顔、反則。心臓が痛くなるくらい愛しかった。』

 どこまでも続く、律の言葉。

 日記のようで、詩のようで、でも全部、“私のため”だけに書かれた言葉だった。

 指が震えて、途中から読めなくなった。

 涙が止まらなかった。

 そのとき、背後でシャワーの音が止まった。

 ちひろは慌ててスマホを閉じたけど、胸の中はもういっぱいで。

 バスタオル姿の律が戻ってきたとき、彼女は立ち尽くしていた。

「……見ちゃった」

「……ああ。うん。隠してたつもりはなかったけど、びっくりした?」

 ちひろは何も言えず、ただコクリと頷いた。

 律は少し照れたように笑って、頭を掻いた。

「好きって言うの、うまくないから。だから書いてたんだ。忘れたくないし、伝えたかったから」

「……ばか。言ってよ。ずるいよ、そんなの……」

 ちひろは、涙のまま抱きついた。

「ずっと、全部、見ててくれてたんだね……」

「うん。だって、君が僕の全部だから」

 スマホの中の言葉たちは、ふたりの心の奥にまで届いて、
 その夜、ちひろは人生でいちばん幸せな泣き顔をした。

 それは、小さなメモ用紙だった。

 拾い上げてみると、手のひらにすっぽり収まるくらいの小さな紙に、手書きでこう書かれていた。

 ──『りっくん、今日もおつかれさま。だいすき。』

 律は、一瞬固まって、それからふっと笑った。

 こういうの、反則だ。

 照れくさくて、でも嬉しくて、
 胸の奥が、きゅってなった。

「ちぃちゃーん?」

 呼びかけると、キッチンから顔を出した彼女は、何かを隠してるような顔でニヤニヤしていた。

「見た?」

「……見たよ」

「……どうだった?」

「うん。今日、世界一のご褒美もらった気がする」

 ちひろは、ふにゃっと笑って、
 それでもちょっと赤くなった顔を隠すように後ろを向いた。

「たまには、わたしから“好き”って伝えたくなって……」

「うれしい。ほんとに、すごくうれしいよ」

 律はそっと後ろから抱きしめた。

「でも僕も、ずっと思ってたよ。毎日、伝えたくてたまらない」

「うそ。言ってない日、あるよ」

「じゃあ、これからは毎日、洗濯物に“好き”って書こうかな」

「やだ、わたしがたたむんだから、それバレバレじゃん……!」

 ふたりで笑い合うその空気が、
 まるで何年も一緒にいたかのように、やさしくて、自然だった。

 洗濯物の匂いと、ちひろの言葉と、メモの文字。

 全部が、“今日も生きててよかった”って思えるような、そんな魔法だった。

第9話『風邪ひいた日、看病はてんやわんや』

週の真ん中、水曜日。

 律は朝から少し顔色が悪かった。

「……大丈夫? なんか、声、変だよ」

「うーん……ちょっと喉が痛いかも。でも行けるよ」

 そう言って出かけたけれど、夕方にはLINEが来た。

『ごめん、今日は早退した。ちょっと熱あるっぽい』

 そのメッセージを見た瞬間、ちひろはソファから跳ね上がった。

「やば、風邪!? ど、どうしよう、おかゆ!? いや、ポカリ!? え、お風呂は!? あ、違う違う、布団!!」

 頭の中がフル回転したけど、答えは出なかった。

 スーパーに走り、ゼリーとポカリとスポドリを両方買い、ウィダーもなぜか3本、レトルトおかゆとプリンも詰め込み──帰ったときには紙袋がパンパンだった。

「りっくん、生きてる!?」

 ベッドに横たわる律が、目を細めて笑った。

「……ちぃちゃん、買いすぎ……」

「だって心配で! 何が必要か分かんなくて、ぜんぶ買った!」

 服も着替えさせようとしたけど途中でシャツの袖に腕を通せず、「これ、無理ゲー」と投げ出しかけて。

 熱を測るのにおでこに体温計を当ててしまい、「それ耳用」と言われて赤面して。

 おかゆはレンジで爆発して、「わたしの愛が吹きこぼれた」とか訳の分からないことを言って。

 それでも、律はずっと笑っていた。

 汗を拭きながら、「ありがと、すごく嬉しい」と言って。

 薬を飲んで横になると、ちひろの手を握って、小さな声でこう言った。

「……ちぃちゃんの声、聴いてると、楽になる」

 ちひろは、その言葉に泣きそうになって、ぐっとこらえた。

「じゃあ……いっぱい話す。どうでもいいこと、いっぱい話すから、うるさかったらごめんね」

「うん。うるさいほうが、安心する」

 その夜、ちひろはずっと律のそばにいた。

 不器用な看病でも、役に立たなくても──
 “心配してくれる”ってことが、こんなにも力になるんだって、律は知った。

 そしてちひろも、
 「何かしてあげたい」って気持ちだけで、誰かの世界をあったかくできるんだって、少しだけ自信がついた。

 翌朝には、熱はすっかり下がっていて。

 でも、律は言った。

「もうちょっと寝込んでたかったな。ずっと甘やかしてくれるし」

 ちひろは、枕をぶんぶん振り回して怒ったけど――

 顔は、ずっと笑っていた。

第10話『ベランダで、未来の話をした夜』

風が少しだけ冷たくなった夜だった。

 ちひろはソファで毛布にくるまりながら、ベランダの方をちらちら見ていた。
 律が外でタバコを吸っているのは分かっていたけど、なぜか今日は、そこに行きたくて仕方がなかった。

「……入っても、いい?」

 ちょこんと顔を出して言うと、律は驚いたように目を丸くして、それからにっこり笑った。

「もちろん。どうぞ」

 ベランダには、ふたり分の折りたたみ椅子。
 ちひろはそこに腰を下ろして、夜空を見上げた。

「ねぇ、りっくん」

「ん?」

「わたしたち、これから先も、こんな感じでいられるのかな?」

 律は少しだけ考えるように目を細めてから、煙を小さく吐いた。

「“こんな感じ”って、どんな感じ?」

「だめなとこばっかりで、空回りして、でも笑って、一緒にいて……
 なんか、“ちゃんとしてない”まま、ここまで来ちゃった感じ」

 律は隣を見て、優しい目で言った。

「ちゃんとしてるよ、ちぃちゃん。たぶん、誰よりも」

「でもさ、仕事も中途半端だし、自信もないし、うまくいかないことばっかりで……
 こんなわたしと、これからも一緒にいてくれるのかなって、ちょっと怖くなるときがあるの」

 ちひろの声は、小さく震えていた。

 律はタバコを消して、ちひろの手を握った。

「ちぃちゃんが、全部“ちゃんと”になっちゃったら、きっと僕は寂しくなる」

「え?」

「今のままでいい。ダメでも、悩んでても、不器用でも、ちゃんと君を好きでいられる自分でいたいから」

「……うそくさいくらい、やさしいね」

「じゃあ、信じられるように、もっと言うよ。
 僕は、君と一緒に未来に行きたい。ちゃんと、先の話もしていこうね」

 ちひろの目に、涙が浮かんだ。

「……それって、プロポーズ?」

「うーん。違うかな。でも、予告編みたいなもんかな」

「……じゃあ、予告でもうれしい。何回でも聞きたい」

 風が少しだけ強くなって、ベランダの空気を冷たく撫でた。

 でも、ふたりの手のぬくもりは、そのまま。

 未来はまだ見えないけど、
 “この人となら、歩いていけそうだ”って、
 ちひろは、心の奥からそう思った。

 夜空の星よりも、きらきらした約束が、そこにはあった。

だめだめ彼女と僕