「もう、別れようか」
彼女がそう言ったとき、僕はなぜか驚かなかった。お互いの忙しさに押されて、会う頻度も減っていたし、連絡もどこか事務的だった。
4年付き合った恋人との別れは、涙も怒号もなく、ただ静かだった。大人になったというより、慣れてしまっていたのかもしれない。
彼女は出版社に勤め、僕は広告系の会社にいた。時間が合わないのは仕方なかった。だけど、本当にそれだけが原因だったのか――今でもよく分からない。
別れてからの数カ月は、空っぽの部屋と向き合う日々だった。いつものコンビニ、いつもの駅、いつもの帰り道。全部に彼女の影があって、思い出を避けながら暮らしていた。
そんなある日、仕事で取引先のプレゼンに呼ばれたとき、会議室で彼女が待っていた。
「…久しぶり」
そう言った彼女は、少し髪が伸びて、でもあの頃と変わらない優しい目をしていた。
ぎこちないやりとりの中で、気づいたことがある。
まだ、彼女を嫌いになれていなかった。むしろ、今の方がもっと彼女をちゃんと見ている気がした。
仕事を通じて、何度か連絡を取り合ううちに、またふたりで食事をするようになった。恋人ではないけど、他人でもない。そんな微妙な関係が続いた。
ある日、帰り道の交差点で、彼女がぽつりと呟いた。
「別れてよかったと思ってた。ちゃんと仕事に向き合えたし、後悔もなかった。でも今こうして並んで歩いてると、もう一度ちゃんと、向き合ってみたくなるね」
僕はその言葉に返すことができなかった。でも、信号が青に変わるまでの数秒、心の奥が確かに動いた。
恋は終わることもある。
でも、終わった先に見える景色の中で、もう一度「始まりたい」と思える誰かがいるなら――その気持ちに、素直になるのも悪くないのかもしれない。
別れはすべてを失うことじゃない。
少し遠回りをして、やっとわかることがある。あのとき必要だった距離が、ふたりを再び繋げてくれることもあるから。