忘れもしない、あの雨の日。大学に向かう途中で突然のどしゃ降りに遭って、私は駅の出口で立ち尽くしていた。
傘は持っていなかった。天気予報をちゃんと見なかった自分を何度も責めながら、どうしようかと周囲を見渡す。でも、朝のラッシュ時、みんな忙しそうに足早に通り過ぎていくばかりだった。
鞄を頭に乗せて走り出そうとしたとき、不意に頭上がふわっと暗くなった。誰かが私の上に傘を差し出してくれていた。
「濡れちゃいますよ、一緒に行きましょう」
振り返ると、見覚えのない男の人がいた。黒のジャケットに、雨粒が静かに落ちていた。少し照れたように笑っていて、その笑顔がやけにやさしかった。
「えっ、でも……」
戸惑う私に、彼はあっさり言った。「大学、たぶん同じですよね?文学部の方ですよね?」
驚いた。「はい……なんで?」
「あ、よく図書館で見かけてたから。覚えてるだけです」
そのとき、少しだけドキッとした。誰かに“覚えられてた”ということが、こんなにくすぐったくて、嬉しいものだなんて思わなかった。
私たちは、大学までの10分ほどの道を、一つの傘で並んで歩いた。
話したのは、天気のこと、授業のこと、駅のコンビニのサンドイッチが美味しいってこと。特別なことは何もなかったのに、心はやたら忙しくて、気づけば笑顔ばかり浮かべていた。
「あの……これ、よかったら返さなくていいですよ」
大学の門の前で彼が言った。手には、私にすっかり馴染んだ傘があった。
「え、でも……」
「その代わり、またどこかで偶然会えたら、何かお礼してくれると嬉しいです」
冗談のように言ったその一言が、なぜかずっと心に残っていた。
それからしばらくは会うことがなかった。私は彼の名前も聞かないまま、ほんのひと時だけの出会いだったと思っていた。
でも、春休み前の図書館で、また彼に出会った。今度は彼の方から気づいて、手を振ってくれた。
「やっと会えた。約束、覚えてます?」
笑ってそう言った彼に、私は素直に頷いた。ちゃんと、あの日からずっと覚えていたから。
それが、私たちのはじまりだった。
こんな偶然、信じていいのか分からなかったけど、雨の朝に差し出された一本の傘が、私の世界を少しずつ変えていった。
傘はそのまま、今も部屋に置いてある。あの日のことを忘れないように。運命って、案外、静かに始まるものなのかもしれない。