あのときの雨の匂い、いまでも忘れられない。
コンビニのビニール傘の音が、彼の靴音と重なって、ぽつ、ぽつと響いてた。傘の中で彼が小さく笑ったとき、私はなんて返したっけ……。
どうして今になってこんなことを思い出すのか、自分でもよく分からない。でもさっき、本棚の整理をしてたら、あのノートが出てきたんだ。高校のときの、みんなで回して書いた“恋バナノート”。まさか、まだ持ってたなんてね。
あのページを開いた瞬間、胸がぎゅうっとなって、息をするのも忘れた。
「“こたろう”って、なんか、犬の名前みたいだな」
初めてそう思ったのは、入学式の日だった。席が隣だった彼は、ぼそっとそう自己紹介して、私の笑いを引き出した。なんでもない会話だったけど、それが始まりだった。
最初は、ただのクラスメイトだった。私も彼も、特に目立つタイプじゃなかったし、お互い地味で、どこか臆病だった。でも、不思議と隣にいるのが自然で、気がついたら毎日話してた。
「なんでそんなに消しゴム使い切るの早いの」
「なんでそんなにシャーペンの芯折れるの」
そんなくだらないやりとりが、どうしようもなく愛しかった。
文化祭の準備で遅くなった日、駅までの道を一緒に歩いた。いつもは賑やかな道が、その日だけはやけに静かで、彼の横顔ばかりが気になった。喉が乾いてるのに、言葉が出てこなくて、私はずっと前だけ見て歩いた。
でも彼は、ぽつりとこう言った。
「俺、来年……引っ越すかも」
心臓が止まりそうになった。でも、私の口から出たのは、
「ふーん、寂しくなるね」
だけだった。
引き止めたいとか、行かないでほしいとか、本当は山ほど言いたかったのに。どうしても言えなかった。彼にとって、私はただの「隣の席の女子」なのかもしれないと思ったら、怖くなって。
それからというもの、なんとなく避けてしまった。目が合っても、すぐに逸らしたし、話しかけられても曖昧に笑ってごまかした。
でも、ある日。
彼が私の下駄箱に、メモを入れてきた。
“放課後、屋上で待ってる”
手が震えた。
行くか迷ったけど、結局、私は行った。
屋上には、雨が降ってた。
彼は、傘も差さずに、ただ柵にもたれて立っていた。
「……ごめん。急に呼び出して」
「ううん、いいよ」
言葉が見つからなくて、風の音ばかりが耳に残った。
「……俺、やっぱ引っ越すことになった」
私は、頷くことしかできなかった。
「だからさ……最後に、ちゃんと言っとこうと思って」
彼は、一歩近づいてきて。
「お前のこと、ずっと好きだった」
時間が止まったみたいだった。
雨の粒が、頬に触れて、それが涙なのか分からなかった。
私は……何も言えなかった。
あの日から、十年以上が経った。
私も大人になって、仕事もあって、恋人もいたこともある。でも、あのときの“言えなかった返事”だけが、いまだに胸の奥で疼いてる。
きっと私は、彼のことが、好きだった。
でもあの頃の私は、それを認める勇気がなかったんだ。
……それでも、あの雨の日を思い出すたび、胸の奥がじんとする。