落としたハンカチを拾った彼と、駅のホームで交わした視線から始まった恋

その日、私はとにかく機嫌が悪かった。

仕事で小さなミスを重ねて上司に注意され、昼休憩もろくに取れず、帰りの電車はまさかの遅延。
ホームに立っていた私は、無意識に深いため息をついた。

「落としましたよ」

声に振り返ると、背の高い男性が私のハンカチを差し出していた。
確かに、さっきポケットに突っ込んだつもりのハンカチ。気づかなかった。

「あっ…ありがとうございます」
「刺繍、かわいいですね。手作りですか?」

気さくな笑顔と、落ち着いた口調。
一瞬で緊張がほどけて、不思議な安心感に包まれた。

「いえ、母が昔くれたやつで…」
「そうなんですね。なんか、気持ちがこもってそうで、いいなって」

その瞬間だけ、駅のざわざわした喧騒がふっと消えた気がした。

電車が来るアナウンスが流れ、私は自然と「失礼します」と会釈して、ホームに滑り込んだ電車に乗り込んだ。

だけど、隣のドアから彼も乗ってきて、なんとなく流れるように、目の前の席にふたり並んで座った。

「偶然ですね」
「…はい。あの、ありがとうございます、さっき」
「いえ。…ていうか、今日めっちゃ疲れてる顔してたから」

「えっ、そんなに?」
「ちょっとだけ。俺も似たような顔してるかもですけどね」

それから、電車に揺られながら、ふたりでぽつぽつと会話をした。

話す内容は他愛もないことだった。
天気の話、電車の遅延、職場の愚痴、好きな映画──
でも、そのどれもが不思議と心地よくて、電車が進むたびに、彼との距離も近づいていく感じがした。

「このまま話し続けてたら、降りるタイミング逃しそうですね」
「…次で降ります」
「じゃあ、俺も降ります」

「え、同じ駅ですか?」
「ううん、たぶん違う。でも、次で一緒に降りて…お茶でもしませんか?」

急な提案に、少しだけ驚いた。
でも、それ以上に、素直に「いいな」と思ってしまった自分がいた。

近くのカフェで並んで座って、コーヒーを飲みながら話した彼の名前は、涼(りょう)くん。
同い年で、アパレル関係の仕事をしているという。
「接客ばっかりだから、人の顔見て話すのは得意かもしれない」と笑っていたけれど、その言葉通り、どんな話題でも柔らかく返してくれた。

気づけば、1時間以上が過ぎていた。

「…そろそろ帰りますか」
「そうですね」
「……また、会えたらうれしいです」
「私も」

LINEを交換して、駅の改札前で軽く手を振ったとき、胸の奥にポッと火が灯るような感覚がした。

それから何度か、涼くんとはメッセージをやりとりして、週末にランチをすることになった。
あの日のカフェとは違って、休日のゆったりした空気の中で、少しずつ、少しずつ、彼のことを知っていった。

「一目ぼれ、ってあると思う?」
ある日、ふいに彼が聞いてきた。

「あるかも。…少なくとも、私が今日ここにいるのは、あのとき駅で会ったからだし」
「俺も。…なんでか分からないけど、あのときの表情、すごく覚えてるんだよね」

照れくさくて、視線を外したけれど、口元は自然と緩んでいた。

偶然、落としたハンカチを拾ってくれた彼。
あの一瞬がなかったら、私たちはすれ違ったままだった。

小さな偶然が、ひとつの恋を連れてくることもある。
だから今は、毎日をちょっとだけ丁寧に過ごしたくなる。


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