その日は朝から小雨が降っていた。
私は天気予報を見ていたはずなのに、傘を忘れた。
最寄り駅を出たときには、すでに本降りになっていて、歩き出すこともできず、駅の出口で立ち尽くしていた。
「……やばい」
声に出してしまった。
スマホで天気アプリを開いてみても、傘は出てこない。
カバンの中には折りたたみ傘も入っていない。
誰かに連絡して迎えに来てもらうような相手もいない。
どうしようか迷っていたら――
「よかったら、入ります?」
見知らぬ声が、突然隣からした。
振り向くと、背が高くて、スーツ姿の男性が、大きな黒い傘をこちらに差し出していた。
駅から出る歩道は狭く、傘が一つしか入れないほど。
でも彼は、まるでそれを見越していたように、自分の肩を少しだけ濡らす形で傘を傾けていた。
「えっ、あ、ありがとうございます……!」
私は思わずその傘の中に飛び込んだ。
その一歩が、たぶん私の心の傘も開いた瞬間だった。
彼の名前は湊(みなと)さん。
聞けば、私と同じ駅で通勤していて、しかも会社が向かいのビルだった。
お互いに「毎朝すれ違ってたのに、全然気づきませんでしたね」と笑い合った。
ほんの数分間だったけど、あっという間に心の距離が縮んだ気がした。
信号を渡るとき、彼がさりげなく私の歩調に合わせてくれたこと。
濡れた足元を見て「気をつけてくださいね」と言ってくれたこと。
その全部が、私にとっては久しぶりの“人の優しさ”だった。
その日はそのまま、「ここまでで大丈夫です」と言ってお礼を言った。
彼は笑って、「じゃあ、また雨の日にでも」と言って去っていった。
でも私は、そのままでは終わらせたくなかった。
それから数日後、晴れた朝にまた駅で彼を見かけた。
勇気を出して声をかけた。
「この前はありがとうございました! 傘のお礼、ちゃんとさせてください」
彼は少し驚いた顔をしてから、「じゃあ、お茶でも?」と返してくれた。
その日、仕事終わりに近くのカフェに入った。
「こういうの、久しぶりかも」
「なにがですか?」
「誰かと、ちゃんと向き合って話すこと」
その言葉を聞いて、私も思った。
あの日、傘を貸してもらったこと以上に、優しさに触れたことが嬉しかったんだと。
「私、ちょっと人との距離感が苦手で。でも、あの日みたいに声をかけてもらえるって、ほんとに……助けられた感じがして」
彼は黙って聞いていて、それから小さく笑った。
「それ、俺もです」
その日はそれだけだった。恋だとは思っていなかった。
でもそれから、週に1回くらい、駅で会うたびに自然と隣に並ぶようになった。
天気が悪い日はもちろん、晴れていても、私たちは一つの傘の中にいるような感覚だった。
そしてある日の朝、彼がぽつりと言った。
「実は……来月から異動で、地方に行くんです」
心がふっと冷たくなった。
でも、「行かないで」とは言えなかった。
「そっか……」
「うん。でも……会えてよかったと思ってます」
言葉に詰まりそうになったけど、私は笑った。
「私も、忘れません。傘を貸してくれた日のこと」
彼は、ほんの少しだけ淋しそうに笑って、
「じゃあまた、雨の日に」と言って改札をくぐっていった。
それからもうすぐ一年が経つけれど、私は今でもあの駅で、雨が降るたびに、あの日のことを思い出す。
優しさは、恋になる。
それを教えてくれたのが、あの一つの傘だった。
雨の日の出会い #傘をきっかけに #恋愛体験談 #優しさに救われた恋 #すぐ終わったけど忘れられない