秘密の鍵は、あの扉の向こうにあった


私がその扉に触れたのは、偶然じゃなかった。
大学の図書館の奥、誰も使っていない古い会議室。
そこには“共用資料室”という名の、小さな部屋があった。そこにだけ、普通の学生証じゃ開かない鍵が必要だった。

「……それ、君も持ってるんだ?」

声をかけてきたのは、隣の学部の先輩。
落ち着いた雰囲気で、でも少しだけ笑うと子供みたいな表情になる人。

「うん、先生から頼まれて。掃除しに来たの」

そんなふうに始まった、ささいな共同作業。
一週間に一度だけ、ふたりきりになる時間。

いつの間にか、作業が終わったあとも、私はそこに残るようになっていた。
先輩は紅茶を入れてくれたり、古いレコードをかけてくれたり。
話題は本のこと、音楽のこと、恋のこと…。

「誰かに好きって言われたこと、ある?」

「あるけど…怖かった。向けられる好意って、時々、重たいよね」

「じゃあ、言ったことは?」

「……ない」

その夜、私は夢を見た。
あの部屋で、先輩にキスされる夢。
起きた瞬間、心臓が鳴って、指先が熱くて――もう、知らないふりはできなかった。

先輩には、恋人がいた。
優しそうな人だった。
ふたりが並んで歩く姿を、私は偶然見てしまった。

「……ごめん、気づかないふりしてた」
「俺もだよ。鍵を渡した時から、ほんとは……少しだけ期待してた」

そのあと、扉の向こうで、私たちは抱き合った。
言葉はなかった。
触れることがすべてを壊すとわかっていて、それでも私は……嬉しかった。

先輩が卒業する日、あの部屋の鍵を返すことになった。

「君のおかげで、大学生活がすごく濃くなった」

「わたしは……まだ、いろんなことが中途半端なままだなって思ってる」

「それでいいんだよ、恋って、完成しなくても残るものだから」

笑っていたけど、涙がこぼれそうだった。
触れられない関係でも、確かに私は愛されていた。
それで、十分だった。

春になって、新入生のガイダンスで私は同じ資料室の鍵を受け継ぐことになった。
ふと、あの扉の前で立ち止まる。
誰もいない静かな部屋。だけど、まだ微かに先輩の香りが残っている気がした。

私は鍵を差し込む。
ゆっくりと、また扉が開く――

これは、私が自分で選べなかった恋。
でも、確かに“あの部屋”にだけは、ふたりだけの時間が生きていた。