大人のピアノ教室で出会った彼女の、静かで優しい笑顔に惹かれていった

「ピアノ、今から始めたいって本気ですか?」

そう笑いながら言ったのは、個人レッスンの教室で受付をしていた彼女。
僕は29歳、ずっと仕事漬けの生活の中で、何か音のある時間が欲しくて、思い切って社会人向けの音楽教室に通い始めた。

「昔はギターやってたんですけど、両手で音が重なるのって、なんか…かっこよくて」
「ふふ、イメージは分かります。でも思ったより指、動かないですよ?」

笑顔でそう言ったのが、受付スタッフの結衣さんだった。
年齢は聞いてないけど、たぶん僕より2~3歳下。物腰が柔らかくて、透明感のある声が印象的だった。

レッスンは週に1回。先生はベテランの女性だったけど、行くたびに必ず受付で挨拶してくれる結衣さんとのやり取りが、小さな楽しみになっていった。

ある日、教室に早く着いて、待合スペースで練習ノートを見返していたら、彼女が声をかけてきた。

「今日の曲、ショパンなんですね」
「はい、でも全然指が言うこときかなくて」
「聞いてもいいですか?どこが難しいのか」
「え…聞いても、分からないと思いますよ?」
「実は、私も昔ピアノやってたんですよ」

そこから少しだけ、彼女と音楽の話をするようになった。
本番前の緊張、左手がうまく動かないこと、レガートがうまくつながらないこと。
どれも専門用語ばかりだったけど、彼女はちゃんと聞いて、笑って、頷いてくれた。

ある週の帰り道、教室の前で彼女とばったり鉢合わせた。

「もう上がり?」
「はい、今日はこのあとお買い物に。…あの、もしよかったら、お茶しませんか?」

まさか誘われるとは思っていなかった。
そのまま駅前のカフェに入って、仕事の話、習い事を始めたきっかけ、休日の過ごし方……気づけば1時間以上が経っていた。

「…こうして話すの、なんか新鮮です」
「僕も。普段、仕事でしか会話しないから、余計に」
「音楽って、話さなくても気持ちが伝わるから好きなんです。…でも、言葉でちゃんと伝えるのも、大事ですね」

コーヒーを飲みながら、彼女が静かにそう言った。

その言葉が妙に印象に残って、夜帰宅してからも、何度も思い返してしまった。

それから数週間、レッスン帰りに彼女と時々お茶をするようになった。
完全にプライベートの時間。でも、お互いにどこか遠慮があって、まだ“恋”とは言い切れない関係。

ある日、レッスン中に弾いた曲を録音して、それを彼女に聴かせた。
拙い演奏だったけど、彼女はじっと耳を傾けてくれた。

「音、すごく丁寧ですね」
「…上手じゃないけど、気持ちだけは込めてます」
「その“気持ち”が、ちゃんと伝わってきました」

彼女の手が、テーブルの上で少しだけ僕の方に伸びた。
ほんの数センチ。けど、その距離がたまらなく愛おしく感じた。

季節が少しずつ春に変わってきたある日、僕は勇気を出して聞いた。

「今度、レッスンじゃない日でも会いませんか?」
「……はい。私もそう言ってほしかった」

返ってきたその笑顔は、ピアノよりもずっとやわらかくて、心に響いた。


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