彼と別れてから、もう5年が経っていた。
大学時代、私の世界はいつも彼を中心に回っていた。将来の夢や、些細な悩み、何でも話せる彼が、私にとってのすべてだった。でも、就職を機に、お互いの未来が少しずつずれていって、私たちは別々の道を歩むことになった。別れは、涙でぐしゃぐしゃになった、雨の日だった。彼の温かい手が、もう二度と私に触れることはないんだと、そう信じていた。
それから何年もの月日が流れて、私は仕事にも慣れて、新しい人間関係も築いて、それなりに充実した毎日を送っていた。彼のことは、時々思い出しては胸がチクリと痛むけれど、もう過去のことだと、自分に言い聞かせていた。
その日は、会社の近くのカフェで、取引先の人と打ち合わせをしていた。窓の外は、さっきまで降っていた雨が上がって、アスファルトが濡れて光っている。打ち合わせが終わって、私がカフェを出た時、交差点の向こうに、見覚えのある後ろ姿を見つけた。
はっと、息を飲んだ。彼の背中だった。
少し癖のある、あの懐かしい髪型。雨上がりの空気の中、彼が傘を閉じて、何かに気を取られているようだった。心臓が、ドクンと大きく鳴った。まさか、そんなはずはない。でも、あの背中は、間違いなく彼だった。どうしよう、声をかけるべき?それとも、このまま立ち去るべき?
私の足は、彼に向かって一歩、また一歩と動いていた。
「…リクト」
震える声で、彼の名前を呼んだ。彼がゆっくりと振り返った。彼の顔には、大人の男性らしい落ち着きと、少しだけ疲れたような影があったけれど、その瞳は、あの頃と同じ、優しい瞳だった。目が合った瞬間、彼の顔に、驚きと、そして少しだけ懐かしさが混じったような表情が浮かんだ。
「…〇〇?」
彼の声は、あの頃より少し低くなっていたけれど、その響きは、私の記憶の中の彼と寸分違わなかった。彼の口から、自分の名前が出ただけで、私の心臓はさらに早く脈打った。
私たちは、交差点の角にあるカフェに入って、たくさんの話をした。お互いの近況、仕事のこと、そして、あの頃の思い出。話せば話すほど、別れてからの空白の時間が、まるで嘘だったかのように感じられた。彼の声を聞くたび、彼の笑顔を見るたび、私の胸の奥で、確かに何かが動き出すのを感じた。
カフェを出て、私たちは雨が上がったばかりの街を歩いた。二人で並んで歩くのは、本当に久しぶりだった。彼の腕が、私の腕にかすかに触れるたびに、胸がキュンとなった。あの頃は、それが当たり前だったのに、今は、そのたびにドキドキが止まらない。
駅の改札前で別れる時、彼は少しだけ寂しそうな顔をした。
「なぁ…また、会えるかな?」
彼の声は、少しだけ震えていた。私は何も言えなくて、ただ小さく頷いた。すると、彼が私の手を、あの頃と同じように、そっと掴んだ。
彼の掌は、あの頃よりも少し大きくて、指の節がごつごつしていた。でも、その温もりは、私の記憶の中の温かさと全く同じだった。彼の指が、私の指の隙間にゆっくりと絡んで、そして、しっかりと握りしめてくれた。彼の温かさが、私の手のひら全体にじんわりと伝わってきて、胸の奥がぎゅっと締め付けられた。
「…もう、離さない」
彼の声は、夕焼けの空の下で、優しく、そして力強く響いた。彼の温もりが、私に、もう一度彼を信じていいんだと、そう語りかけているようだった。
雨上がりの交差点で、彼の温もりに触れた日。終わったはずの恋は、そこで再び動き出した。彼の温かい手が、もう二度と離れないようにと、私に語りかけている。この再会が、私たちにとっての運命だったのだと、私は確信した。