彼の不器用な指先が、私のメロディを変えた日

私の恋は、放課後の音楽室で、ひっそりと始まった。

学校の最終下校時刻が近づく頃、私はいつも音楽室に忍び込んで、誰もいない部屋でピアノを弾くのが日課だった。人前で弾くのは苦手だけど、一人だと心が落ち着く。特に、その日は、来週の発表会で弾く曲の練習をしていて、なかなかうまくいかない部分に苦戦していた。

「そこ、指が開きすぎてるんじゃないか?」

突然、後ろから声がして、私の心臓がドクンと大きく跳ねた。驚いて振り返ると、そこにいたのは、クラスで一番無口で、でも誰よりもクールな、ケントくんだった。彼はいつもヘッドホンをしていて、何を考えているのか読めないタイプ。まさか彼が音楽室にいるなんて、想像もしていなかった。

ケントくんは、私の隣に静かにやってきて、鍵盤をじっと見つめた。そして、私の指を避けるように、彼の指が私の鍵盤の上にそっと触れた。彼の指は、私よりずっと大きくて、細くて、でも骨ばった、少しだけ冷たい指だった。

「こう、もっと指を立てて、手首を柔らかく使ってみろ」

彼の声は、意外にも優しくて、そして、驚くほど澄んだ音色だった。彼は私の隣で、実際に数小節、弾いて見せてくれた。その音色は、私がどんなに練習しても出せなかった、力強さと繊細さを兼ね備えていた。彼の横顔は真剣で、指先から伝わる彼の体温が、私の心を温かくしていく。彼のシャツから、少しだけ墨のような、でも清潔感のある匂いがした。

それから、放課後の音楽室は、私たち二人の秘密の場所になった。私がピアノを弾いていると、いつの間にか彼がやってきて、隣で黙って聴いていたり、時々、私の演奏にアドバイスをくれたりするようになった。言葉は多くないけれど、彼が隣にいるだけで、不思議と心が落ち着いた。彼の不器用な優しさが、私の心をキュンとさせたんだ。

ある日、発表会が目前に迫って、私はどうしても緊張が抜けずにいた。指が震えて、なかなか納得のいく演奏ができない。彼が私の隣に座って、黙って私の手元を見ていた。

「大丈夫だよ」

彼が、私の震える指に、自分の指を重ねてくれた。彼の指先は、ひんやりとしていたけれど、そこからじんわりと伝わる温かさが、私の不安を溶かしていく。彼の大きな掌が、私の小さな手を包み込むように、優しく、でも力強く触れてくれた。その瞬間、私の体中に、甘い電流が走ったみたいだった。彼の指の感触、掌の温もり、そして彼の匂い。全てが私を包み込んで、息をするのも忘れてしまいそうだった。

「焦らなくていい。お前ならできる」

彼の声は、いつもよりずっと近くで、そして、とても優しい響きだった。彼の言葉と、重なった指先から伝わる彼の温もりに、私の心は落ち着いていった。そして、もう一度、ピアノに向かう勇気をもらったんだ。

発表会の日、私は彼のアドバイス通りに、手首を柔らかく使って、指を立てて演奏した。会場に響き渡る音は、私が練習していた時よりもずっと、力強く、そして穏やかだった。弾き終わって、客席を見た。一番後ろの席に、ケントくんが立っていて、私に小さく頷いた。その時、彼の口元が、わずかに緩んだのが見えた気がした。彼の「大丈夫」という言葉と、あの時重なった指先の温かさが、私を支えてくれたんだと確信した。

放課後の音楽室で始まった、私の秘密の恋。彼の不器用な指先と、優しい声が、私のメロディを変えてくれた。音と音が重なり合うように、私たち二人の心も、少しずつ近づいている。この恋は、まるで繊細なピアノの旋律のように、これからも私の中で響き続けるだろう。