この匂い、ずっとそばにいたくなる

出会った瞬間に恋に落ちた──
なんてことはなかった。

でも、最初にすれ違ったとき、
ふわっと鼻をくすぐったあの“匂い”だけは、ずっと残ってた。

甘すぎず、
香水じゃないのに印象的で、
どこか安心するような、肌の温度みたいな香り。

「誰の……?」

そう思って見たら、
廊下の向こうで笑ってる、知らない人だった。

同じ職場だったのに、部署が違って、
その日までは気にも留めたことがなかった。

でも、香りが先に、
私の中にその人を“刻みつけて”しまった。

それからというもの、
彼が近くに来るとわかるようになった。
空気が、少し変わる気がする。

打ち合わせで同席したとき、
コートが私の隣にかけられて、
思わず深呼吸してしまったのを、誰にも言えない。

彼のことを好きになった理由を、
誰かに聞かれたら、たぶんうまく答えられない。

「いい匂いだったから」なんて、
バカみたいに聞こえるから。

でも、そうだった。

香りが、
彼の言葉より先に、
笑顔より先に、
私の心に触れてきた。

やがて、少しずつ話すようになって、
たまたま一緒に残業した夜、
「疲れたね」って彼が言ったときの、
距離の近さに、思わず目を閉じてしまった。

「……俺、汗くさくない?」

「ううん、好きな匂い……かも」

それを聞いた彼が、照れたように笑った顔を、
私はたぶん一生、忘れない。

それから自然と、連絡を取り合うようになって、
ふたりで出かけるようになって──

付き合い始めてからも、
私は彼に抱きつくと、真っ先に首元に顔をうずめてしまう。

「やっぱ好き、この匂い」

「それ、褒めてる?笑」

香水も服も変わっても、
どこかにある“彼だけの香り”が、
私の中の「好き」の芯になってる。

恋の始まりなんて、
理屈じゃない。

私にとっては、“匂い”だった。
それが、“心”より先に好きになったものだった。