放課後のチャイムが鳴り響いても、私の心はまだ騒がしいままだった。今日、彼に会えるかもしれない。それだけで、私の制服のスカートの裾が、心なしか軽くなったように感じられる。向かう先は、誰もいない放課後の図書室。
図書室は、いつも独特の匂いがする。古い本の紙の匂いと、少しだけ埃っぽい匂い。それが私にとっては、彼を待つ間の、なんだか落ち着く香りだった。窓から差し込む夕焼けのオレンジ色が、ずらりと並んだ本の背表紙を照らしている。この時間、図書室には私と、そして彼しかいない。それが、私だけの秘密の場所、秘密の時間の始まりだった。
彼とは、図書委員として知り合った。最初はただのクラスメイトだったのに、ある日、私が読んでいる本について彼が話しかけてきて、そこから一気に距離が縮まったんだ。彼はいつも、少し眠たそうな目をしているけれど、本のことを話すときは、目がキラキラ輝く。そのギャップに、私はいつの間にか惹かれていた。
「あれ、今日もまだいたんだ」
後ろから聞こえた声に、私の心臓がギュッと縮まる。彼の声だ。振り向くと、彼が大きな本を抱えて立っていた。彼の制服のシャツは、腕まくりされていて、少し汗ばんでいるのがわかる。図書委員の仕事で、重い本を運んでいたんだろう。その腕の筋肉が、なんだか大人っぽく見えて、胸の奥がキュンとなった。
「うん…ちょっと、読みたい本があったから」
そう答えるのが精一杯で、声が震えそうになるのを必死で抑えた。本当は、彼に会いたくて、ずっと待っていたなんて言えるはずもない。
彼が私の隣の棚に本を戻しに来て、私との距離がぐっと近くなる。彼の髪から、シャンプーと、少しだけインクのような匂いがした。それが、なんだか彼の匂いみたいで、深呼吸したくなる。彼が腕を伸ばして、一番上の段に本を置くとき、彼の制服の袖が、私の腕にそっと触れた。
その瞬間、私の体は硬直した。腕に触れた布の感触、その向こうから伝わる彼の体温。ただそれだけなのに、私の全身の細胞が、一気にざわめくのを感じた。心臓がドクドクと大きく脈打って、耳の奥でその音が響いているみたい。顔が、首まで真っ赤になっているのが自分でもわかった。
「ごめん、邪魔だった?」
彼が心配そうに私を見て、少しだけ眉を下げた。私は慌てて首を横に振った。
「ううん!全然…!」
必死に平静を装うけれど、声はやっぱり上ずってしまう。彼が、私の顔をじっと見つめている。その視線に耐えられなくて、私は思わず俯いてしまった。
「顔、真っ赤だよ?熱でもあるの?」
彼の手が、私の額にすっと触れた。ひんやりとした指先が、熱くなった私の肌に触れた瞬間、体中に電流が走ったみたいだった。驚きと、それから、あまりの嬉しさに、私は息をすることも忘れてしまった。彼の指は、そのまましばらく私の額に触れたまま。彼の指の感触が、直接脳みそに響くみたいで、頭の中が真っ白になる。
「…大丈夫そうだけど」
彼が指を離した途端、その失われた温かさに、体がぞくっとした。もっと触れていてほしかった。そんな自分が、なんだか恥ずかしかった。
「うん、大丈夫…ありがとう」
ようやく絞り出した声は、蚊の鳴くようだった。彼がくすっと笑った。「ならいいんだけど」そう言って、彼はいつもの席に戻っていった。
私は、彼が触れた額に、そっと自分の指を当てた。まだ彼の温かさが残っているみたいだった。外ではカラスが鳴き始めて、夕暮れが深まっていく。この図書室で、彼と二人きりで過ごす時間。彼の指が触れるたびに、私の心は、まるで新しい本を読み始めたときのように、期待とドキドキでいっぱいになる。
これは、私だけの秘密の恋。この小さな触れ合い一つ一つが、私の心を大きく揺さぶり、もっと彼を知りたい、もっと彼に触れたいという、新しい気持ちを教えてくれた。放課後の図書室は、私にとって、ただの場所じゃない。私の初恋が、ゆっくりと育っていく、魔法の空間なんだ。