名前を呼ばれるって、こんなに嬉しかったっけ。
ずっと昔。
私は、自分の名前が嫌いだった。
小学生の頃、ちょっと古風な名前だとからかわれて、
中学では“呼ばれること”が恥ずかしくて、
高校ではあえて目立たないようにして、誰にも名前を呼ばせなかった。
「おい」とか「ねえ」とか。
人間関係って、そういうもので十分だと思ってた。
でも、大学の図書館でアルバイトしていたとき、
あの人が、毎週決まった時間に来るようになって。
最初は気にも留めてなかった。
読書ノートに几帳面な字を書く静かな人。
でもふと気づいたら、
私は彼が座る窓際の席を無意識に確認していた。
ある日、その人がふいに言った。
「〇〇さんって、本、返し方まで丁寧ですよね」
その瞬間、空気が震えた。
私の名前──
誰にも呼ばれなかった、ずっと封印してた名前を、
まるで何のためらいもなく、当たり前のように口にした。
動悸がした。
呼吸が浅くなった。
なんでだろう。
ただ名前を呼ばれただけなのに。
そこから少しずつ、会話が増えた。
借りた本の感想を聞かれたり、
図書館で見つけた文章を一緒に笑ったり、
本の挿絵を見せ合って、「これ好き」って指差したり。
私たちは連絡先も知らないまま、
ただその場所、その時間で出会い続けた。
彼といると、私はよく笑った。
自分でも知らなかったくらい、くだらないことで笑った。
けれどある日、突然彼は来なくなった。
週に一度の、小さな世界が途切れた。
音もなく、気配もなく、失われた。
何週間かして、私は気になって職員名簿を調べた。
彼の名前が載っていた。
思った通りの、優しい名前だった。
そして、彼が入院したと聞かされたのはその翌週。
理由も、容態も、何もわからなかった。
知らない。ただ、それだけ。
私の立場は“図書館で数回話しただけの人”。
見舞いに行く資格なんてなかった。
だから私は、
手紙を書いた。
名前を記さずに、思い出だけを書いた。
「あなたに名前を呼ばれたとき、わたしは自分を取り戻せた気がしました」
「どんな未来にいても、あなたの声が心に残っています」
数日後、返事が届いた。
それは、彼の筆跡だった。
「ありがとう。君がいてくれて、本当に救われてた」
「名前を呼んだとき、少しだけ震えてたの、気づいてたよ」
「でもそれが、嬉しそうだったのも、忘れられない」
最後に、こうあった。
「だから、また呼ばせてね。君の名前を」
声に出して、泣いた。
誰にも愛されてないと思っていた。
誰にも覚えられない人間だと思っていた。
でも彼は、私をちゃんと見てくれていた。
私の名前を、声に乗せてくれた。
そして、また呼びたいと思ってくれた。
それだけで、私はもう、充分だった。